こんにちは、おみです。
今回は、私の自己紹介みたいなものです。
令和5年10月から、ビジネスの世界に足をふみいれました。
きれいごとに聞こえるかもしれませんが、
私が副業をやっているのは、
「稼いで楽したい」とか
「本業を辞めたい」という理由ではありません。
私がビジネスをやる理由は、
「」
「壮絶な人生を送ってきた主人のこれからの人生を幸せにする」ためです。
私の人生は、へいへいぼんぼんのふっつーの人生を歩んできたんですが、
私には想像もできない人生を歩んできた主人が
環境や価値観が変わって、
新しい人生を歩もうとしているのを、全力でサポートしたいんです。
捨てるもの
拾うもの
大事にするもの
それは、自分で決めていいんです。
そのことについて、話していきます。
お付き合いいただけると嬉しいです。
X(Twitter)のアカウントはこちらです。
おみ@ファン化×ライティング(@omi_nepoc)
私がどういう人なのか、主人がどういう人なのか
そのギャップを感じながら見てもらえたら、面白いと思います。
前半は、おみのこと
後半は、主人のこと
最後に、私の野望を書いています。
おみは、田舎の正義感あふれる頑固もの(家族紹介あり)
おみの生まれは、九州のある山奥です。
地元は、名水100選に選ばれて、お米がおいしいのが自慢です。
いとこのお姉ちゃんに、
「おみちゃんちのご飯は、めちゃくちゃ美味しいね。こんなの毎日たべれるなんて幸せやん。」
って言われて、いつも嬉しかったのを覚えてます。
実家の階段は、60度のなかなか急な角度がついてます。
そして、
「あれ?これ、素人の手作り?」と思うほど、
5cmとか、10cmの隙間があいてて、外がまる見えです。
だから、真冬は、家の中でも
吐く息が白かったです。
それが普通だと思って生きてきたので、今思えば、やばい環境ですね。
布団はキンキンに冷えて、しばらく寝れないというがスタンダードです。
でも、わたしって意外とキンキンに冷えた布団が好きで、
徐々に布団が温まって、しっかり布団にくるまってポカポカの状態を自分でつくるのが
楽しみでもありました。
このように、住む環境はなかなかでしたが、
家族からは、とてもかわいがってもらいました。
「おはぎ作ったから持ってきたよ。」とか
「畑でとれたから、裏口においてるよ。」とか
よく田舎にあるような、物々交換をしたり、協力しあうのが我が家の基本です。
こういう、人と人のつながりを大事にし、
お互いに支え合う、田舎の風習が、色濃くの地域でそだちました。
実家を離れて一人暮らしするようになってから、
人の温かさって、なんとも捨てがたいものだったなと、しみじみ感じてますし、
どこに引っ越しても、近所の人とあいさつしたり、物々交換するのが意外とやめられません。
両親は共働きだったので、学校から帰って、ばあちゃんと過ごしたり、
1人で漫画読んでいることが多かったです。
ばあちゃんと畑に行って、
白菜とったり、キャベツとったり、ニンジン抜いて、その日の夕飯にしたりしてました。
あとは、おじいちゃんの薪割りを眺めて過ごしましたね。
こうやって、
おじいちゃんおばあちゃんと過ごす時間が長かったので、
高齢者の人との関わりがめちゃくちゃ得意ですし、
私自身もおばあちゃん世代に会うとほっこりしてます。
特にお金があるわけじゃなかったのですが、
休日には、無料やお安く遊べるところを、お母さんが探してくれて
お弁当をもって、
草スキーのできる公園で、20回、30回とすべりまくる日を過ごしたり、
火力発電所の見学所では、
スイッチを押すと、模型が動いたり、
小学生にもわかりやすく火力発電所ってどういうことやっている?と図解で学んだり、
宇宙科学館では、
氷点下30度を体感したり、宇宙食を食べてみたりと、
子どもながらに、楽しい毎日を過ごしたのを覚えています。
おばあちゃんに育てられたようなもんなので基本おばあちゃん子ですが、
お母さんのことはすごく尊敬しています。
私が目指す女性像は、お母さんで、
・常に前を向いている
・常に学びの姿勢がある
・常に人を大事にしている
こういう母が大好きです。
お父さんは、小さな施設の管理職です。
朝早く家を出て、夜10時頃に帰ってくる、そんな日が多かったです。
なので、あまり父と一緒に遊んだ記憶はなくて、
時々、庭でキャッチボールしたり、ゴルフのスイング練習に付き合ったりする程度でした。
でも、仕事への姿勢や、真面目な性格、きっちりした性格が芯があって気持ちいいとさえ思います。
あとは、兄と弟がいますが、兄弟仲は良い方だと思います。
兄にいじめられたことはなく、逆に優しくて、なんでも許してくれる兄です。
私は、真面目過ぎて許すことが苦手なので、兄の心の広さを尊敬しています。
弟は、末っ子ってのがよくわかる、周りに甘えるのが上手な子ですが、
その分、ギブギブ精神の塊なんです。
実は、家族の中で、一番ビジネスに向いているのは弟だよなって思ってます。
弟は、ガソリンスタンドで働いているんですけど、
帰省したら、毎回ガソリン満タン+洗車をしてくれるし、なんかよくわからん車の部品とか変更されてます。
(弟の支払いで。笑)
と、まぁ、こんな感じの、よくある家庭で、7人家族で、楽しく自尊心みたされて育ってきました。
勘違いしながらギリギリ進んだ中学校時代~大学時代
中学では、勉強できる方だと思ってたんですけど、
めっちゃ勘違いしてて、
ド田舎の中学校の「成績いいね」は高校じゃ全く通用しませんでした。
めっちゃ恥ずかしいけど、
高校入学後のテストで、200人中「196位」でした。
ケツから、5番目。
「あれ?私って頭良かったんじゃないの?」って
ハズイですよね。
「井の中の蛙」が、大海を知った時でした。
信じられなくて目を疑って、2度見をとおりこして、
5度見くらいしました、リアルに。
人っておどろくと、こうなります。
お母さんなんて、信じたくなかったのか、順位表見せたけどすぐ目をそらして話を変えられました。
これぞ、「お手本のような現実逃避」です。
勘違いしてレベルの高い高校に入ったので勉強についていけないことも多々ありましたね。
そんな中、進路希望提出になって、
「高齢者施設で働きたい。」と、両親のようになりたいと思ってましたが、
ヘルパー資格をもって、介護士として働いているお母さんからは全力で止められて、
看護師になるように勧められました。
「看護師になっても、介護士のやることはできるから」と、今思えば必死に説得されたような気がします。
周りの友達も、看護師志望の子がおおくて、
周りに流されるまま、
お母さんの希望通りに、看護師の学校を目指しました。
そして、大学受験。
高校時代の反省がいかされず、また無謀な大学に挑戦します。
まじでアホなんですけど、
数Ⅲ、数Cが受験科目に入っているのに
専攻とってないけど、受験するっていう荒技にでます。
そして、結果は・・・
結果:不合格
今おもえば、なんで受験したの?
と思いますが、
なんか、最後の方は、思い出づくりみたいな感じになってましたね。
受けると言ったからには、もう後に引けないな。
ま、受かったらラッキーか・・・。
ってな感じで。
こんな、勘違い野郎で、失敗続きですが、
別の学校にギリギリ受かり、なんとか看護師の免許を取りました。
大学時代は、
サークル活動・ボランティア活動にいそしみました。
家族と遠く離れた場所で、
何も恐れずに、周囲の大人に頼ったり、先輩後輩とつるんだり、
今の私からは、かけ離れてる、ずいぶん社交的な日常を過ごしていました。
そして、社会人として看護師やってガチで会社に尽くす
無事に大学を卒業して、地域で一番でっかい病院で、看護師として働き始めます。
新卒から12年間、ある病院に勤めたんですが、
ある意味、ブラック企業なみの「教育」が徹底されていて、
ピリピリ、イライラが当たり前の、サビ残だらけの職場でした。
でも、新卒からずっと同じ病院なので
その異様なことに気づきませんでしたね。
看護部長が通ったら、みんなピシッとして、椅子からたって挨拶。
患者さんより、看護部長へ挨拶。
年賀状は出さないなんてありえない。
こんな、軍隊化した組織でした。
そんな軍隊職場とも、12年でお別れを告げました。
娘が産まれて、いろいろ条件が合わずにやめることにしました。
それまで、独身で自由な身だからと、子育て世代が困っていたら勤務変更も、いつでも受けてたけど。
自分が子育て世代になったら、それは受け入れてもらえなかったんですよね。
まぁ、言っていることはわかりますが、
お互い様、助け合いの職場ではなかったから仕方ないです。
でも、今では転職して正解だったなと思ってます。
あのまま続けていたら、
娘に相当な我慢をさせていただろうし、
イライラピリピリを家庭に持ち込んで
もしかすると、家庭崩壊していたかもしれないと思うし、
もしかすると、私の心がズタボロに壊れていたと思います。
給料は減りましたが、
今は、おだやかな環境で働いています。
では、私がなぜ、情報発信をやっているのか、
そのあたりを話していきたいと思います。
ステキに見えた主人には、壮絶な過去があった
真面目で面白味のない人生を歩んできた私でしたが、
主人と初めて会ったとき、「ビビビ」ってやつですかね。
輝いて見えたんですよね。
主人の「自分の感情のまま生きている」ってのが、
私には強烈に輝いて見えて一緒にいる時間が全部楽しかったんです。
「その場を楽しむ」
「人との会話のラリーを楽しむ」
私は、こういうことが苦手なんですけど、
主人は、自分が楽しみながらでも、
常に全員が輪に入るように、声掛けしたり、いじったり、絡んだりして全員が楽しく過ごすように配慮できる人なんです。
一緒にいたら常に楽しいし、周りの人ともワイワイやってて素敵な人なのに
こんなパッとしない私のことも気にしてくれるという、
「あ、モテるなこいつ」タイプでまんまとやられました。
そこから、5年かけてアタックしまくって結婚しましたが、
ここからが私の人生の大きな転換期となりました。
明るく見えた主人は、実は、
人がなかなか経験しないであろうことを乗り越えてきていました。
なんでも許してくれる主人なんですが、
人に期待をしないのには、理由がありました。
(一応、主人に、こうやって書いてもいいか相談てしOKもらってます)
主人の親、兄弟は、つながっているのは血だけで、私からみたら「絆」がみえないんです。
主人がよくいいます。
「おれの親戚は、浅い関係だから、おみの親戚を大事にしたい」って。
「こっちは、どうでもいいけど、
おみの家族は、おれを信じてくれてるのがわかるからそこはちゃんとしたい」って。
主人は、両親を半面教師にして
「自分と同じ体験を、娘には絶対にさせない。」と、自分なりのいい父を模索しています。
こうやって主人が思うようになったのは、
私が主人の幼少期の話をいろいろ話を聞いて、
「それって普通じゃないよ」
「それ続けていると、こんな人生になるよ」
「ここを変えたら、もっと良くなると思うな」
と、少しずつ少しずつ、価値観を変えて言ったからだと思います。
私と出会うまで、
両親の都合のいいように扱われていた主人は、それが当たり前だと思っていました。
両親は離婚して別々に住んでいて、
寝泊りは父の家、ご飯は母の家で食べるという「安定した居場所がなかった」のが主人の人生でした。
義母も義父も、それぞれに壮絶な親子関係がありました。
だから、誰が悪いとかそういう次元の話ではありませんが、
私の想いはただ一つ、「私の人生に彩りをくれた主人を幸せにしたい」。
この一心なんです。
だから、娘と3人で幸せになりたいという主人の希望を叶えるためには、
お金が必要になりました。
稼ぐことが目的ではないんです。
稼ぐことは、幸せになるための、ただの手段です。
主人を幸せにするために、副業をする。
これが、私が副業をやるたった一つのエネルギー源です。
主人の小さいころの忘れられないエピソードが二つあります。
主人は、小5の時に一人で、6つ下の弟を保育園に迎えに行ってました。
その時、母親は何をしていたのかというと、「パチンコ」です。
これが、日常茶飯事だったようです。
だから、主人と出会ったころは、休みがあればすぐパチンコ。
デートは、パチンコとかいってましたよ。
いかれてますよね。
好きだから、好きな人が好きなことだからやってみるか。
って興味ないのに、一緒に過ごす時間が欲しくて
パチンコに付き合ってました。
主人の価値観が変わってきたので、
今では、パチンコはその場で、お金を使い切るのはもったいない。
それなら、キャンプ道具・釣り道具・BBQ道具を買って、何度も楽しめた方がお得じゃないか。
って、パチンコ辞めました。
ビジネスにおける「教育」と同じなんですけど、
よりよい価値観の上書きを繰り返したら、人って変わるんだなって実感してます。
話を戻すと、
「パチンコ」を親がやっているのが当たり前という価値観から、
パチンコほどもったいないお金の使い方はない、という価値観へ変わって、
「娘と一緒に水族館行ったり、サファリパークいったりする方が、
意味のあるお金の使い方だ」、というほどになりました。
だから、
「親がパチンコいったり、親が食べたいものにお金をかけて、子どもはタイ米を食べていた。」
とか、おかしい環境だったと、30後半にして気づいたようです。
もう一つのエピソードは、
運動会に、誰も応援にこなくて、下駄箱に「ホカ弁」が押し込められていたことです。
義母は無職だったので、時間は十分にありました。
でも、下駄箱にホカ弁なんですよね。
最近の子は、ホカ弁がわからないかもしれませんが、
ほっともっとのお弁当です。
「あれは、なんか恥ずかしかったな。」
「隠れて急いでご飯食べてたよ。」
って、普通に話すんです。
こんなエピソードを持っていても、
主人にとっては当たりまえだったから、何とも思っていないようで、
そんな主人をみて、私は、
「人って、自分が育ってきた環境が基本になる」
「人って、話してみないと何を経験してどんな価値観があるのかわからない」
そう、深く学びました。
こんなエピソードが山のようにあったんだと思います。
「親とどこか遊びに行った記憶はない」し、「褒められた覚えもない」。
だから、「自分が家族を持ったら全力で大事にしていきたい」という主人の信念があります。
その熱意に、答えるように私も主人を幸せにしたいのです。
普通の幸せ
笑顔の毎日
新しい経験
家族での団らん
当たり前は、当たり前じゃないことを教えてくれました。
あまり、人を悪く言いたくないのですが、
主人は、自分の家族から離れたことで人生好転しているらしいです。
ビジネスを勉強して、「環境」って大事、「価値観」って大事って学びましたが、
実際に体験したので、心の底からそう思います。
少しずつ、主人の中での家族が変わってきて、
「おはよう」「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」「おやすみ」
が言える人になりました。
もともと、家の中であいさつする習慣もなかったんです。
まさに、子どもって環境で変わるんだなと感じましたが、
それと同時に、絶対に抜け出すこともできるんだと、主人が証明してくれました。
主人がよく言うんですけど、
「おみについていけば間違いないと思っているし、実際におれがまともに変わっていってるのがわかる」
って、私を信じてついてきてくれています。
「困っている人は助けなさい」というおばあちゃんの教えのもと、
義母と同居しておりましたが、とてつもなく辛い長い日々を過ごしました。
ノイローゼになりかけたり、カサンドラ症候群になりかけたりしたんですよね。
生きてきた環境が、全く違いすぎてお互いに苦痛の日々を過ごしました。
いろいろ事情があって、
弁護士相談、解決せず。
産後で、精神的に不安定だったのもあり、急に泣きじゃくって、
ボロボロでした。
子育て支援センターで
心理カウンセラーをすすめられて相談すると、
「全力で逃げなさい、娘さんやあなたの人生まで食いつぶされるよ」と。
やっと、気づいたんですね。
この一言に、救われました。
「あ、私にげていいんだ」
「困っている人すべて助けるのは無理」、って。
「主人の家族を大事にしなさい」って祖母からずっと言われていたことを思い出しました。
知らず知らずに、真面目過ぎる性格がでて、自分を苦しめてたんです。
そこから、主人は私と娘を守るために、主人の家族と戦ってくれて、
家族に対して自己主張をしない主人が、初めて怒鳴ったのを聞きました。
最後は、200万渡して、無事に別居です。
主人名義で借りられてた借金も、
主人が返したので、合計で300万以上は手放しました。
そして、やっとここからがスタートだと思っています。
私の人生の目標は、「主人と娘を幸せにする」ことです。
まずは、「主人が行きたいところへ一緒に旅行に行く」なんですけど、
主人に聞いたら、「娘と3人でいろんなところに行って、たくさん思い出を作りたい」ってことなので、
全国どこでも、国外でも、1年に何回でも、
旅行にいけるようにするために、挑戦し続けます。
そして、こういう経験してきて思うのは、
教師の方には申し訳ないですが、
日本は圧倒的に、「お金の使い方の知識」や「正しい教育」がスッカスカなんだろうなと。
いくら、学校で勉強を教えても、道徳を教えても、
育った環境が基本になってしまうから、
そこを抜け出そうとか、
今の現状がおかしいと気づかない人は、
その環境や思考から抜け出すという選択肢があることさえ知らないんです。
主人のように壮絶な幼少期を過ごした子が、その思考から抜け出すには、
「お金の使い方の知識」と「正しい教育」が必要です。
全ての日本人を助けようとか、平等に全員を救うとか、無謀なことは言いません。
私が発信することで、
もしかしたら違う世界があるんじゃないか
もっといい人生になるんじゃないか
と気づいた人だけでもいいから救いたい。
「心がさみしくなる思考・環境」から抜け出して、
「未来のために挑戦し続ける」ことを応援してサポートしたいんです。
ただの私の自己満になりますが、
「おみと関わったから、人生変わった。」と、1000人に言われたいんです。
だから、私は、
学び続け、進化し続け、周りの人を幸せにし続けます。
こんな私ですが、今後ともよろしくお願いします。
コメント